葡萄 


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− 葡萄 −

 葡萄の香りにふと意識が戻る。ぼんやりと流れ作業をこなして「心ここに在らず」だったのが、甘ったるくも爽やかな匂いに気を引かれた。
 何だろうと周りを見てみると、いつの間にか一人の男性がそばで作業をしていた。ずっとそばにはいたけれど、彼が急いで作業して寄ってきたのか、私が手こずって寄っていったのか、随分近くに彼はいた。
 名前は伊藤さんという。男性というには幼くて、少年というには大人びている。社会人三年目だったか、後輩が増えて得意げに先輩風を吹かせる二十一歳だ。
 キャラメルのような茶に染めた短い髪は、毛先が少し撥ねているがさっぱりとしている。顔立ちは今時の若い坊ちゃんにありがちな、線の細い美男子系だが、乙メンというほど柔くはない。
 彼がよく噛むガムの味が葡萄なので、伊藤さんがいると葡萄の匂いがするのだ。いればすぐ分かるようになった。
 他人にあまり干渉しない私は、ここにきて一か月経ってから、やっと彼の名前を覚えた。そして、彼の方が年下なのだということは三か月以上経ってから知った。
 第一印象が大人びていたので、私は勝手に彼を年上だと思い込み、常に敬語で「さん」付けだった。向こうはしっかり私が年上なのを知っていて、敬語を使ってくれている。お姉さん扱いされているのが不思議で、それを不思議がられて、馬鹿みたいだった時期もある。
 この伊藤さんは目立つ見た目をしているが、性格は大人しくて親切丁寧な人だ。面倒見がいいわ、世話好きだわと善い人の代名詞のようだった。私が作業に手こずってバタバタしていると、すぐ心配して手伝いに来てくれる。彼自身は何にでも余裕があるみたいで、年下とは思えないほど頼りになる。
「あれ、私、作業遅かったりします?」
「俺があおってるだけっすよ。邪魔なら手ぇ抜きますけど?」
「んー、構いませんよ。好きなだけあおり作業でプレッシャーかけて下さい。負けません」
「あはは、プレッシャーかけるつもりはないんすけど」
 今も癖が直らない敬語に、のんびりした声が返ってくる。私が遅いのではなくて、どうやら伊藤さんが寄ってきたらしい。急いで作業しておけば失敗してもやり直す時間が作れる。しかし、寄ってこられるとこっちも急がないといけない気がして、煽るような作業を嫌う人というのもいる。
 伊藤さんはそんなに失敗をする人ではないのに、時々こうして寄ってくるのだ。私が苦手な作業の時、私の失敗のフォローをするために準備してくれている時はある。が、難しい作業が必要な商品は今日は作っていない。
 どうしたんだろうか、気まぐれに遊んでいるんだろうか。
 何処までも善い人だから、伊藤さんの行動で不安になったりいらいらしたりは全くない。甘い葡萄の匂いがしてくるだけで、安心するくらいだった。
 自分が遅いわけではない。それは分かったけど、早く作業して時間を作って、部品でも足したいんだろうなと私も急いで作業する。なんなら手伝ってもいいと思う。
 しかし、どれだけ早くやっても、一向に伊藤さんは行動を起こさない。私が前へ行った分追ってきて、何やら楽しそうに微笑んでいる。
 もしかして、追い駆けっこがしたいのか。
「……伊藤さーん。もうあおれませーん」
 これ以上はコードに繋がった道具が届かない、というところまできたので、正直に直球で訴えた。すると、彼は「負けないって言ったじゃないっすか」と笑った。そういう意味ではなかったのだが……困ったな。
「プレッシャーには負けないって言ったんですー。もう届かないもの、ほら」
 ぐいぐいとやって見せると、彼はくすくすと笑う。全く本当に、何なんだろう。
 むぅと唸って、口を尖らせる。不意に葡萄の匂いが強くなった。
「逃げなくたっていいんすよ。ただ近くにいたいだけだから」
 耳元に囁かれた言葉に、「へ?」と振り返る。すぐ後ろに立った伊藤さんは、穏やかな目で私を見下ろしていた。少し上にある顔を見ながら、しばらく固まってしまう。
「いいんですか? あんまりぼーっとしてると作業遅れちゃいますよ?」
 ちょいと横を動くベルトコンベアーを指差して、伊藤さんが首を傾げた。そうだ、私が固まっていてもコンベアーは普通に動いている。未作業の商品が、人を馬鹿にしたようにてろてろ目の前を通り過ぎる。
「うわぁっ! ヤバいよ! マズイですよっ!」
「あはは」
 面白そうに笑って、この人はまた手伝ってくれる。葡萄の香りにふわりと包み込まれて、わけもなく照れては手を滑らす。でも、それすら伊藤さんの考えの内だったようだ。

 その日、自分は彼に可愛がられている、愛されているということに初めて気が付いた。葡萄で思い出すのは、彼だけになった。そしてまた、照れてはからかわれ、あの匂いに安心している。

−終−

2012.9.13


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